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BIOGRAPHY

猪俣猛 Takeshi Inomata
オーボエ奏者の父を持ち、恵まれた音楽環境で育つ。16歳でデビューし、20歳で上京。21歳でスイングジャーナル誌の新人賞に輝き、「渡辺晋とシックス・ジョーズ」を経て、名門「西條孝之介とウエストライナーズ」に参加し、後にリーダーとなって名声を轟かせる。前田憲男、荒川康男とのコンビもこの時期に生まれ、名実ともに日本を代表するトリオとして現在に至る。
教育面での活動も盛んで、1976年にはドラムを通じて音楽の素晴らしさを教える「リズム・クリニック・センター(RCC)」を設立。1991年、音楽生活40周年を迎え、Bunkamuraオーチャードホールを皮切りに全国縦断コンサートを行う。常に豊富なアイディアの持ち主であり、バイタリティあふれる企画の数々も好評を得ている。1994年、「サンクス・トゥ・アメリカ」と題し、「ジャパン・ジャスト・ジャズ・オールスターズ」を率いてニューヨーク公演を行い、カーネギーホール、アポロシアターなどで大喝采を浴び、日本のジャズが高く評価された。1995年度、スイングジャーナル社より、ジャズ界で個人に与える最高の栄誉「南里文雄賞」を受賞する。1997年、21世紀へ向けてシンフォニック・ジャズ・オーケストラを結成し、Bunkamura オーチャードホールにおいてコンサートを行った。1997年より、飛鳥ワールドクルーズに猪俣猛カルテットで連続乗船。1996年より、前田憲男氏を音楽監督にビッグバンド「THE KING」を結成。2000年までの4年間、浜離宮朝日ホールに於いて朝日新聞社主催「キング・オブ・ジャズ−21世紀へ贈る」シリーズをプロデュースし、日本ジャズ史に残るコンサートを全20回に渡り行い貴重な映像を記録。2000年、朝日新聞社主催による音楽生活50周年記念コンサート「リズム&ジャズ」が行われた。2001年〜2004年、銀座王子ホールに於いて、前田憲男(p)、荒川康男(b)とのシリーズコンサート「Golden Trio WE3」を行う。2005年、音楽生活55周年として朝日新聞社主催の「アルがままにイノままに」が開催された。2009年、サントリーホールにてRCC主催・音楽生活60周年コンサート「I LOVE MUSIC」を開催。2010年より、成城ホールにてジャズフェスティバル「JAZZ in SEIJO」をプロデュース。2011年より、流山ジャズフェスティバル「JAZZ in NAGAREYAMA」の総合プロデューサーを務める。2012年、音楽監督を務める国分寺市立いずみホールにて東日本大震災復興支援コンサート「Sing Swing Sing」開催。
2017年、ジャズドラマーとして日本芸術文化の振興への貢献を評価され文化庁長官表彰を授与される。

わが国のモダンジャズドラマーの先駆者として、また、吹奏楽をはじめとするアマチュア音楽教育の面で輝かしいキャリアの持ち主であり、国内外で注目を集めている。

(株)アール・シー・シー代表取締役 、NHK文化センター『猪俣猛ドラム教室』監修、 ヤマハ契約モニター、ジルジャン契約モニター、ヴィックファース契約モニターを務める。

著書「カーネギーへの道」(1996年)

14才の時、1枚のSP盤を聞いて猪俣猛はドラマーになることを決意した。ベニー・グッドマン・オーケストラのカーネギーホールコンサートのライブ盤で、曲は「Sing Sing Sing」、ドラマーのジーンクルーパーに「しびれた」。「プロのドラマーになって、いつかカーネギーホールの舞台に立ちたい」という夢はこのとき芽生えたのだった。夢は見るもので、1994年10月6日、彼はついに念願のステージにたった。

猪俣猛は兵庫県宝塚市生まれ。宝塚歌劇団のオーボエ奏者だった父と天才トランペッターとして名をはせた兄に影響をうけて、幼い頃から恵まれた音楽環境で育った。プロドラマーになりたいと思い立ってすぐに神戸の早川楽器店で初めてのドラムセットを父に買ってもらった。大阪の、その名も「クルーパー」と言うメーカーのスネアドラムだ。店の主人に、「ぼうや、楽器は大切に扱うんやで」といわれた声が今でも忘れられない。

それからは、昼は宝塚歌劇場のオーケストラ・ボックスでレビューやミュージカルの演奏を聴く。夜は父が出演していた神戸の「ビー・ファイブ」というシビリアン・クラブで働きながら、ジャズのグルーブを体で覚えこんだ。
ちょうど戦後の進駐軍の時代だったので、プロとしてのデビューは、ジャズの本場アメリカ人の客が相手だった。米軍キャンプの仕事が多く、「俺たちはバターとハンバーグの匂いをかいで、音楽をやった」と当時を振り返る。

「音楽は、まずハートが大事。テクニックは後でついてくるものだ」というのが持論だ。

「音楽や芸術をやる人間は、さまざまなものを取り込んで、表現力を高めていくものです。日常にあふれている物の中から何を選ぶかが肝心なんだ。それがセンスなんですよ。センスを磨く為には、はじをかきまくることだね」

いま自分の半生を振り返ってみると、ピアニストであり、作曲家でもある前田憲男さんの存在がとても大きい。決して馴れ合いにはならず、常にお互いを刺激しあうよきライバルだ。15年前からは若い世代の教育も手がけるようになった。
「世の中なんでもデジタルになって、子供の心までデジタル化されてきてしまった。ぼくは音楽はアコースティックこそ本物だと思っている。人間関係をうまく作れない現代っ子たちに、ドラムを通してハートの部分を伝えるのがぼくの今の仕事です」

2000年には音楽生活50周年を迎え、これからは全国の子供たちに教えるために、スティックを手に日本中を旅するつもりだ。
2000年 猪俣猛50周年記念コンサートより

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